どぶろく
アクロティリおよびデケリア
アショーカ王
アジア
アゼルバイジャン
アニミズム
アニ・チョイン・ドルマ
アフガニスタン
アフリカ
アブハジア
アメリカ合衆国
アラブ首長国連邦
アルメニア
アワディー語
アンナプルナ
イエメン
イギリス
イギリス東インド会社
イスラエル
イスラム教
イスラム教徒
イムジャ湖
イラク
イラン
インディカ種
インド
インドネシア
インド・アーリヤ語派
インド・イラン語派
インド文化圏
インド料理
ウィキトラベル
ウズベキスタン
ウッタラーカンド州
ウッタル・プラデーシュ州
ウペンドラ・ヤダヴ
エドマンド・ヒラリー
エベレスト
オマーン
オーストラリア
カザフスタン
カタール
カトマンズ
カトマンズの渓谷
カトマンズ盆地
カピラ城
カミ (カースト)
カレンダー
カレー
カンチェンジュンガ
カンボジア
カースト
キプロス
キラント教
キルギス
キルティプル
ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャー・デーヴ
ギリジャ・プラサド・コイララ
クウェート
クリシュナ・プラサド・バッタライ
クリスマス島 (オーストラリア)
クル・バハドゥール・グルング
クーデター
グルカ
グルカ兵
グルカ戦争
グルジア
ココス諸島
サウジアラビア
サガルマータ国立公園
サハナ・プラダン
サモサ
サラダ
サンスクリット語
シェルパ
シェル・バハドゥール・デウバ
シッキム州
シャカ暦
シャー王朝
シリア
シンガポール
ジニ係数
ジャナクプル鉄道
ジャナ・アンドラン
ジャラ・ナト・カナル
ジャング・バハドゥール・クンワール
ジュート
スバス・ネムバン
スリランカ
ゼネラル・ストライキ
ソバ
タイ王国
タジキスタン
タマン族
タルー
ダウラギリ
ダヒ
ダル
ダルバート
ダーラン (ネパール)
アクロティリおよびデケリア
アショーカ王
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クル・バハドゥール・グルング
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シェル・バハドゥール・デウバ
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タマン族
タルー
ダウラギリ
ダヒ
ダル
ダルバート
ダーラン (ネパール)
この項目では、南アジアの国ネパールについて説明しています。
ネパールの首相については「マダブ・クマル・ネパール」をご覧ください。
ネパール連邦民主共和国
संघीय लोकतान्त्रिक गणतन्त्र नेपाल
(国旗)
(国章)
国の標語: जननी जन्मभूमिष्च स्वर्गादपि गरियसि
ラテン文字転写:Janani Janmabhumishcha Swargadapi Gariyasi
(サンスクリット語:祖国は天国より素晴らしい)
国歌: 国歌(題名無し)
公用語
ネパール語
首都
カトマンズ
最大の都市
カトマンズ
政府
大統領
ラムバラン・ヤーダブ
首相
マダブ・クマル・ネパール
面積
総計
140,800km²(93位)
水面積率
2.8
人口
総計(2008年)
29,331,000人(???位)
人口密度
209.65人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年)
8,208億[1]ネパール・ルピー
GDP(MER)
合計(2008年)
126億[1]ドル(114位)
GDP(PPP)
合計(2008年)
315億[1]ドル(77位)
1人あたり
1,142[1]ドル
全土統一
1768年
通貨
ネパール・ルピー(NPR)
時間帯
UTC (+5:45)(DST: なし)
ISO 3166-1
NP / NPL
ccTLD
.np
国際電話番号
977
ネパール連邦民主共和国(ネパールれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称ネパールは、南アジアの共和制国家(2008年に王制廃止)。
東、西、南の三方をインドに、北方を中国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。
多民族・多言語国家(インド・アーリア系の民族と、チベット・ミャンマー系民族)であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教もヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズム等とその習合が混在する。
経済的には後発開発途上国である。農業を主たる産業とする。ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。
目次
1 国名
2 歴史[4]
2.1 先史時代・伝説時代
2.2 古代・中世[9]
2.3 近代
2.4 現代
3 政治
3.1 近況
3.2 大統領・首相
3.2.1 初の大統領選挙
3.2.2 首相選挙
3.3 制憲議会
3.4 行政機構
3.4.1 マオバディによる連邦構想
3.5 国際関係
4 軍事
5 民間軍事会社
6 地理
6.1 概要
6.2 ヒマラヤ山脈
6.3 行政区画
6.4 ネパールの主な都市
6.5 マデシ問題
7 経済
7.1 概説
7.2 データ
7.2.1 国内総生産 (GDP)
7.2.2 労働力
7.2.3 貧困問題
7.2.4 家計
7.2.5 国家予算
7.2.6 鉱工業
7.2.7 エネルギー
7.2.8 輸出入
7.2.9 通貨
8 交通
9 国民
9.1 人口関連
9.2 民族
9.3 言語
9.4 宗教
9.5 難民
10 教育
10.1 識字率
11 文化
11.1 食文化
11.2 暦法
11.3 祝祭日
11.4 世界遺産
11.5 ネパールと日本の文化交流
12 脚注
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク
編集 国名
日本語表記:ネパール連邦民主共和国[2]。
公式の英語表記:Federal Democratic Republic of Nepal、略称:Republic of Nepal[3]
正式名称はネパール語のデバナガリ(デーヴァナーガリー)文字でसंघीय लोकतान्त्रिक गणतन्त्र नेपाल、ラテン文字転写表記はsaṅghīya loktāntrik gaṇatantra nepāl。略称गणतन्त्र नेपाल、ラテン文字転写表記はgaṇatantra nepāl。通称नेपाल、ラテン文字転写表記はNepāl。
なお、国号では「連邦民主共和国」となっているが、現在のところ連邦制は採用されていない。連邦制の採用については制憲議会で議論が続いている。マオバディ(毛沢東主義者、Maoist)は2001年、ネパールの全土に9自治区を設置する構想を発表、実効支配領域内において、2004年初頭までに、首都圏のカトマンズ盆地を領域とするネワール族のための「ネワ自治区」を除く8自治区の「人民政府」を発足させている。
編集 歴史[4]
編集 先史時代・伝説時代
ネパールの中心、カトマンズ盆地には旧石器時代から人が住んでいたことが明らかになっている。ドゥマカールの遺跡で発見された木具を放射性同位元素で測定した結果、紀元前2万7400年ごろのものと推定された。また、タライなど旧インド文化圏の各地でも旧石器時代の遺物が発見されている[5]。
伝説では、カトマンズ盆地は太古の昔湖だった。スワヤンブー寺院を参詣しに来たマンジュシュリ(文殊菩薩)が湖を囲む山を剣で切り開き、湖水を流しだし人が住めるようにしたという[6]。
また「ネ」(ne) という名の牟尼(聖者)が、最初にこの地を「統治」(pal) したので、「ネパール」(nepal)の名が付けられたという伝説もある[7]。その他、ネパールの起源に関する伝説は数多く存在する。
ネパールの古い歴史については「バンシャバリ」といわれる王朝王統譜が5種類伝えられ、「ゴーパーラ王朝」「マヒシャパーラー王朝」「キラータ王朝」があったとされるが、信憑性は低い[8]。
編集 古代・中世[9]
紀元前6世紀 - 現在ネパール領(インド領説あり)のカピラヴァストゥ共和国の統治者の子として釈迦(仏陀)がルンビニで生誕し、北インドに教えを広めた。これらの地域は当時はインド文化圏に含まれていた。
紀元前3世紀 - インドのアショーカ王が釈迦の生誕地である南ネパールに巡礼を行い、仏塔を建立した。
4世紀 - インド・アーリヤ語派の王族によるネパーラー王国リッチャヴィ王朝が成立した。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。
9世紀 - デーヴァ朝が興る。
13世紀〜 - マッラ朝が統治した。ネワール文化が栄える。
1450年ごろ - マッラ朝、バクタプルからカトマンズ王国独立。
1619年までにマッラ朝、パタン王国、カトマンズ王国から独立、三王国並立時代となる。
編集 近代
1769年 - 第10代ゴルカ王、プリトゥビ・ナラヤンがネパールを統一し、シャハ王朝を作る。
1814年 - 1816年 ネパール・イギリス戦争(グルカ戦争)
イギリス東インド会社との戦争の結果、善戦したが敗北。スゴウリ講和条約により、西はマハカリ河以西、東はメチ河以東、および全タライ地方を放棄する代わりに、イギリスから毎年20万ルピーの支払いを受けることになった。(ただし、講和条約締結の9か月後にはイギリスは20万ルピーの支払いをやめて、タライの大部分をネパールに返還し、ほぼ現在の国境ラインに落ち着いた)このほか条約にネパール兵がイギリス軍傭兵に志願できるという条項を加えた。なおイギリスはネパールのことをグルカ(Gurkha=ゴルカ)と呼んでいたので、ネパール人傭兵はグルカ兵(ゴルカ兵)と呼ばれるようになった。これが現在まで続き、ネパールは英印両国に毎年グルカ兵を提供している。
1846年 - 宮廷内の虐殺事件を機にジャンガ・バハドゥール・ラナが宰相となる。以後、宰相はラナ家の世襲となり、1951年まで シャハ王家は傀儡となる。
1914年 - 連合国として第一次世界大戦に参戦。
1939年 - 9月4日に連合国として第二次世界大戦に参戦。
1854年 - ジャンガ・バハドゥール、近代的な大法典ムルキー・アインを公布。
1947年 - ネパール国民会議派(現在のネパール会議派の前身)結成。
1949年 - ネパール共産党結成。
1951年 - トリブバン国王、亡命先のインドより帰国し王位に就く(王政復古)。ラナ家の支配終わる。立憲君主制を宣言。
1953年 - エドマンド・ヒラリー、テンジン・ノルゲイ、エベレスト初登頂。
1955年 - マヘンドラ国王即位。
1956年 - 日本国との外交関係を樹立。
1959年 - 初の総選挙。ネパール会議派・B.P.コイララが政権をとる。封建的諸制度の改革を急速に進め、国王との間に溝ができる。
1960年 - マヘンドラ国王がクーデターにより議会を解散。政治活動を禁止。全閣僚を逮捕。
1962年 - 新憲法制定。政党の禁止、国王に有利な複雑な間接民主主義「パンチャヤット制」、ヒンドゥー教の実質国教化など。
1972年 - ビレンドラ国王即位。
1980年 - パンチャヤット制の是非を問う国民投票。僅差で存続決まる。
1990年
2月18日、パンチャヤット制廃止、複数政党制復活を求めて民主化運動(ジャナ・アンドラン)起こる。ネパール会議派と共産系7政党が共闘。
4月8日ビレンドラ国王、政党党首とテレビ出演。複数政党制導入を約束。
4月16日国王、パンチャヤット制の廃止を宣言。
4月19日国王、ネパール会議派のクリシュナ・プラサド・バッタライを首相に指名。
11月9日、国民主権を謳った新憲法制定(1990年憲法)。
1991年
5月12日複数政党制による30年ぶりの総選挙。ネパール会議派が勝ち、ギリジャ・プラサド・コイララが首相に。
1996年 - ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が王制を打破すべく、「人民戦争」を開始。(ネパール内戦)
2001年1月 - マオイスト、正式に人民解放軍を創設。
2001年 - ネパール王族殺害事件。
ギャネンドラ国王が王位につく。政変により議会停止。
以後、国王・議会・マオイストによる混乱状態。
実質的には武力のない議会に力はなく国軍を掌握する国王派とマオイストによる内戦が続き、政府支配地域とマオイスト支配地域に分かれる。
アメリカが国王を支援。武器を供給するなどしたが、武装した農民がマオイストに合流するなど混乱に拍車をかける結果に。
2002年10月4日、ギャネンドラ国王、クーデターにより、ネパール会議派のデウバ内閣を停止。国王親政。11日、王党派のチャンドを首相に任命。
2004年6月 - 国民の声に圧されて国王、再びデウバを首相に任命。
2005年
2月1日 - ギャネンドラ国王、再度、議会・内閣停止。絶対君主制を導入、非常事態宣言(実質上の戒厳令)。4月末日で解除。
12月 - 議会内の7党連合と議会外の毛沢東派が和解、共にギャネンドラ国王の独裁と闘うことで合意。
2006年
4月 - 7党連合、ゼネラル・ストライキを呼びかけ。民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)が高まる。毛沢東派も抗議行動に参加。
4月24日 - 国王が「直接統治断念。国民への権力移譲。議会を復活」と発表し、政党側に首相推薦を要請。27日、コイララ政権が発足。
5月 - ネパール政府、毛派をテロ指定解除。
5月18日 - 議会が国歌変更と政教分離(ヒンドゥー教の国教廃止)を満場一致で決定。
11月21日 - 政府とマオイスト、無期限停戦を誓う「包括和平協定」に調印。2007年6月までに制憲議会選挙を実施することで合意。
2007年
1月15日 - 下院、暫定憲法発布。その後、下院は解散。
1月23日 - 国連安保理、国連ネパール支援団 (UNMIN) を設立する安保理決議1740を全会一致で採択。国軍と人民解放軍の停戦を監視。
2月 - ネパール南東部では暫定憲法に反対し地位向上を訴えるマデシ(インド系少数民族)の抗議行動が続き、地元警察との衝突により少なくとも21人が死亡。
12月27日 - 暫定議会、ネパールの政体が連邦民主共和制になる旨の暫定憲法改正案を承認。
2008年
4月10日 - 制憲議会選挙の投票が実施され、毛沢東派が第1党となったが過半数は獲得できず。
5月28日 - ネパール制憲議会が招集され、新たな政体を連邦民主共和制と宣言して正式に240年間続いた王制に終止符を打つ。ギャネンドラ国王退位。
編集 現代
2008年
6月11日 - ギャネンドラ前国王、王宮を退去。
7月19日 - 初の大統領選挙。副大統領にパラマーナンダ・ジャー(マデシ人権フォーラム)当選。大統領はいずれの候補も過半数に達せず。
7月21日 - 決選投票の結果ネパールの初代大統領にラムバラン・ヤーダブ(ネパール会議派)が選出される。
7月23日 - ヤーダブ大統領、正式に就任。ジャー副大統領、就任式にインドの言語・ヒンディー語で宣誓し、マデシ以外のネパール人から激しい抗議行動を受ける。
7月24日 - ネパール外務省、各国外交団に国家の正式名称を"Federal Democratic Republic of Nepal",略称を“Republic of Nepal"とするよう要請。
7月28日 - 日本国政府、正式にネパールの国号を「ネパール連邦民主共和国」に改める。
7月29日 - ジャー副大統領、ヒンディー語で宣誓し、混乱を引き起こしたことを陳謝。
8月15日 - 首相に毛沢東派・プラチャンダ(プスパ・カマル・ダハル)が選出される。
8月31日 - プラチャンダ内閣、全閣僚が就任。毛派のほか統一共産党、マデシ人権フォーラムほかの連立内閣。
2009年
1月12日 - ネパール共産党毛沢東主義派とネパール共産党統一センター・マサル派が合同し、ネパール共産党統一毛沢東主義派(統一毛派)となる。
3月2日 - 統一毛派、145条からなる新憲法草案を発表。
5月3日 - プラチャンダが毛派民兵組織の扱いを巡り対立していたルークマングド・カタワル陸軍参謀総長を解任。これに対し連立与党、野党、国軍が一斉に反発。ヤーダブ大統領、解任を取り消し首相を非難。
5月4日 - プラチャンダが首相辞任。連立政権崩壊。
5月23日 - マダブ・クマル・ネパールが首相に選出される。
2010年
12月11日 - 元国王・ギャネンドラの長男の元皇太子・パラスが泥酔、副首相・スジャータ・コイララの娘婿と口論した末に発砲、逮捕される。政治の混乱が続き王制復活への期待が出始めた矢先の出来事であった。[10]
編集 政治
「ネパールの国王」、「ネパールの政党」、および「ネパールの首相の一覧」を参照
編集 近況
カトマンズ、民主の壁
ネパールは2009年現在、暫定憲法のもとで暫定政府が設けられている状況である。2008年5月、制憲議会が設けられ、本格的な憲法の制定を目指している。
2006年の民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)の結果、従来の事実上の絶対君主制から暫定的に象徴君主制へ移行。国王は国家元首としての地位を失い、首相がその職務を代行した。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更され、在外公館の表記からも「王国」が削除された。王室を讃える国歌を廃止し、王室と結びついたヒンドゥー教は国教としての地位を失った。国王は国軍最高指揮権を失い、政府も「国王陛下の政府」から「ネパール政府」に変更された。
これを受け、当時の与党・ネパール会議派は他の諸派から提案されていた王制廃止に賛成する事を表明した。さらに、暫定憲法にネパールで最大の政治勢力であるネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が暫定政府復帰の条件としていた「王制廃止」と「連邦民主共和制」が盛り込まれることが決まり、ネパールの国家形態が王制から共和制へ移行することが事実上固まった。
2008年4月10日に投票された制憲議会選挙(小選挙区240、比例代表335、内閣指名26)でプラチャンダ議長率いるネパール共産党毛沢東主義派が229議席(小選挙区120、比例代表100、内閣指名9)を獲得して第1党となり、ネパール会議派が115議席(小選挙区37、比例代表73、内閣指名5)、統一共産党が108(小選挙区33、比例代表70、内閣指名5)と王政廃止派の政党が大多数を占め、王政支持派政党は唯一国民民主党ネパール(4議席)に留まった。同年5月28日に招集された制憲議会の初会合では、正式に王制を廃止し連邦民主共和制への移行を宣言した(賛成560票、反対4票)。
2009年5月4日、プラチャンダは首相を辞任した。毛派は以前より同派の「党兵」組織(「ネパール人民解放軍」)の国軍編入を要求していたが、国軍トップのルークマングド・カタワル陸軍参謀総長は「正規軍とは思想が違う」」「軍の中立性を保てない」と拒否。他の政党も元ゲリラ組織の毛派が国軍も掌握すれば、毛派が恐怖政治に乗り出す可能性があると警戒していた。ついに2009年5月3日、プラチャンダはカタワル陸軍参謀総長の解任を決めたが、これに対しヤーダブ大統領は同3日夜、首相の解任決定を取り消し、首相の行為を「憲法違反」と批判。また制憲議会で連立を組むネパール統一共産党など主要政党も一斉に反発、毛派を除く連立政権の各与党は政権からの離脱を示唆した。軍内部も大半がカタワルを慕っているためその解任に反発し、政権の中心にあった毛派は瞬く間に孤立した。ネパール会議派などの野党勢力もカトマンズなどで抗議デモを開始し、治安部隊が鎮圧行動に乗り出すなど国内は一気に緊迫した。ただネパールの暫定憲法では大統領に軍トップの任命権を与えているものの、解任権は明記していないため、プラチャンダは「大統領の越権行為」と激怒。4日朝、毛派に緊急幹部会の招集を求め、対抗策の協議した。しかし同4日、連立与党は相次いで連立政権を離脱。毛派は制憲議会で比較第1党であるものの主要政党の連立離脱で与党は過半数を割り、追い詰められたプラチャンダは自らテレビ演説で「辞任した」と発表。毛派中心の政権はわずか8カ月余りで崩壊した。
5月23日、後任首相にはネパール会議派、統一共産党など22政党の連立によりマダブ・クマル・ネパールが選ばれた。統一毛派は投票をボイコットして野党に転じた。
編集 大統領・首相
大統領、首相等については2008年7月13日に制憲議会で可決された暫定憲法第5回修正に定められている。
大統領・首相は制憲議会における主要政党の合意または選挙の過半数で任命される。首相は制憲議会議員であることを要するが、大統領はこの限りではない。過半数を超える候補のないときは再選挙を行う。大統領は軍の最高指揮権は持つが象徴的存在としての国家元首(Head of State)である。一方、首相は政府の長(Head of Government)として実権を持つ。ネパール初代大統領にはラムバラン・ヤーダブ氏(ネパール会議派)が当選している。今回の大統領は新憲法が定められて次の大統領が選出されるまでが任期であるが、一般には2年間である。
編集 初の大統領選挙
大統領の人事については主要政党の間の調整に決着が付かず、結局議会における選挙で決めることとなった。
毛沢東派は、初めは政治と関係のない人物の起用を主張し、他党に配慮する形で大統領職の要求を取り下げた。
一方、ネパール会議派と統一共産党は政治的な人物を大統領に主張してきた。ネパール会議派は当時の首相、G.P.コイララを大統領に推してきた。統一共産党は前総書記マダブ・クマル・ネパールを大統領候補として譲らず、統一共産党との連立を望んでいた毛派はこれを認めるべきかどうか2つに割れて論争した[11]結局、毛派(226議席)はネパールを受け入れられないとして、共和制活動家・ラム・ラジャ・プラサド・シンを支持、これをマデシ3党も支持したが、マデシ人権フォーラムは独自の副大統領候補を立て、それを毛派が支持することを条件にシンを支持していた。しかし、毛派はフォーラムの副大統領候補を支持しなかったため、フォーラムは統一共産党とともにネパール会議派ラムバラン・ヤーダブ代表幹事[12](マデシ出身)の支持に回り、一挙に情勢が変わった。[13]。
7月19日の制憲議会では副大統領にマデシ人権フォーラムが推薦したパラマーナンダ・ジャー(305票)が当選したものの大統領選はラムバラン・ヤーダブ(283票)、ラム・ラジャ・プラサド・シン(270票)とも過半数を得られず、7月21日、再選挙することになった[14]決選投票の結果、第一回投票で欠席した政党からの支持も受けたラムバラン・ヤーダブが、議員総数(594)のうち308票を獲得して初代大統領に選出された。ラム・ラジャ・プラサド・シンは282票にとどまった。(欠席4)[15]。
また7月19日の閣議で決定された官職の序列は以下の通り。第1位-大統領(元首)、第2位-首相、第3位-最高裁長官、第4位-制憲議会議長、第5位-副大統領[16]。
編集 首相選挙
なお、首相にはネパール共産党毛沢東主義派のプラチャンダ議長が当初確実視されたが、大統領選で「裏切られた」として統一共産党とマデシ人権フォーラムの内閣不参加が決まり、ネパール会議派も入閣しないので、一時組閣が困難になった。7月22日毛派の中央委員会で野党の立場をとることを議決[17]。その後、ヤーダブ大統領が、毛派のプラチャンダ議長に全議会的な内閣を組織するように指示したが、ネパール会議派と国防大臣のポストをめぐって対立、選挙により首相を決めることとなった。統一共産党がキャスティング・ボートを握ることとなったが、毛派を支持、これにマデシ人権フォーラムも加わり、毛派のプラチャンダ議長を首相に推すこととなった。
8月15日投票が行われた結果、有効投票数551票の内、プラチャンダ(プスパ・カマル・ダハル)が464票を獲得し、当選。ネパール会議派が推したシェル・バハドゥール・デウバ元首相は113票に留まった[18]。プラチャンダ首相は連立与党(毛沢東派、統一共産党、マデシ人権フォーラム他)と組閣交渉に入ったが、最終的に8月31日、全閣僚が就任し、プラチャンダ内閣が成立した[19]。制憲議会選挙から4か月でようやく新政権が発足した。
2009年5月3日、プラチャンダが毛派民兵組織(ネパール人民解放軍)の扱いを巡り対立していたルークマングド・カトワル陸軍参謀総長を解任したことに反発し、連立与党が一斉に連立離脱。野党、国軍も抗議し、ヤーダブ大統領も首相を非難。翌5月4日、統一毛派は孤立し、ついにプラチャンダは首相を辞任した。共和政下初の政権崩壊となった。
2009年5月23日、統一毛派など3政党は首相候補を制憲議会に提出せず投票をボイコット、統一共産党元総書記・マダブ・クマル・ネパールが統一共産党、ネパール会議派など22政党の推薦を受け、唯一の首相候補として無投票での当選した[20]。
編集 制憲議会
本格憲法制定(現在は「暫定憲法」)を目的とする議会で、政府と毛沢東派の「包括的和平協定」で設立が決まった。任期は2年間。2008年4月10日に選挙が行われた。通常の立法機関としての機能も持ち、首相や大統領の任命権も持っている。定数601議席。制憲議会議長は暫定的にクル・バハドゥール・グルン(ネパール会議派)が務めていたが、7月22日正式の議長としてスバス・ネムワン(統一共産党出身)が満場一致で選出された。
主な政党
ネパール共産党統一毛沢東主義派(旧・ネパール共産党毛沢東主義派、マオイスト、毛派とも)党首:プラチャンダ議長(プスパカマル・ダハル)。229議席。1995年結党。1996年-2006年、人民戦争と称して反政府武装闘争を展開、国土のかなりの部分を実効支配。2006年の民主化闘争では議会内の主要政党と共闘して国王の独裁と戦う。以後、政府と包括的和平協定を締結し、暫定政府に参加。2008年4月10日の制憲議会選挙で比較第一党となるが過半数にははるかに及ばなかった。統一共産党、マデシ人権フォーラムの協力を得て8月、連立政権を誕生させた。2009年1月12日、小規模な共産主義政党、ネパール共産党統一センター・マサル派と合同し、ネパール共産党統一毛沢東主義派となる。
プラチャンダ首相が辞任し、ネパールが首相になると野党に転じた。
ネパール会議派(コングレス党とも)党首:ギリジャ・プラサド・コイララ総裁。115議席。反ラナ家闘争が行われた1947年以来の伝統ある社会民主主義政党。1990年の民主化闘争の火付け役で、以来、たびたび政権を担当してきた。プラチャンダ政権では最大野党であったが、ネパール政権の樹立には積極的に動き、現在は最大与党である。
ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(日本では統一共産党の略称が一般的)党首:ジャラ・ナト・カナル議長。108議席。連立与党。1990年の民主化運動、ジャナ・アンドランをともに闘ったネパール共産党マルクス・レーニン主義派とネパール共産党マルクス主義派が1991年に合同して成立。比較的穏健な議会内共産主義政党。一時は単独政権も担当した。議会内でキャスティングボートを握っている。プラチャンダ政権にも参加したが参謀総長の人事で連立を離脱、政権を崩壊させた。後任には同党の元総書記マダブ・クマル・ネパールが首相に選出された。
マデシ人権フォーラム。正しくは「マデシ人民の権利フォーラム」と訳すべきであるが、日本ではこの訳が定着してしまった。マデス地方の人々の利益を代表する地域政党。党首:ウペンドラ・ヤーダブコーディネーター。54議席。第4党ながら副大統領を出す。統一共産党を補完してキャスティングボートを握る。「一つのマデシ」をかかげ、自治権の獲得を要求する。プラチャンダ政権の連立与党になった。ネパール政権にはビジャヤ・クマール・ガッチャダールがその樹立に積極的に動き、副首相兼建設大臣として入閣したが、ヤダヴ党首はこれと対立、ガッチャダールらを除名、連立離脱を表明し、党分裂が確実となっている。
この4政党を含めて24の政党が制憲議会に議席を持っている。詳細はネパールの政党を見よ。
編集 行政機構
ネパールの政府機構は非常に複雑である。官僚機構は内閣の各大臣(Minister)に直結しておらず、首相、そしてその下におかれたChif Secretary(直訳すれば官房長官、実質的には事務次官会議を総括する内閣官房副長官にあたるのかもしれない)が統括し、各省庁にはSecretary(日本で言えば事務次官のようなものか?)がおかれ、各省庁を統括している。こうしてみると、内閣は首相の諮問機関のような役割に見える。非常に首相に権限が集中するシステムに見える。
外部リンク ネパールの行政機構(ネパール政府首相府HP) - 行政組織図(英語)
編集 マオバディによる連邦構想
マオバディ(毛沢東主義者、Maoist)は2006年の段階でネパールの国土の八割を掌握したと自称し、実効支配領域において順次、民族別の特別区や自治区を設置している[21]。
2001年9月 マオバディの「中央人民政府」、「統一革命評議会ネパール」を樹立、自治区構想を発表。
セティ・マハカリ自治区(民族による自治区ではない)
ベリ・カルナリ自治区(民族による自治区ではない)
マガラート自治区(マガール族の自治区)
タルワン自治区(タルー族の自治区)
ネワ自治区(ネワール族の自治区)
タマン自治区(タマン族の自治区)
マデシ自治区(民族による自治区ではない)
キラート自治区(ライ族・リンブー族の自治区)
2003年2月 マオバディの勢力圏の中枢部において、ルクム郡の7ヶ村とロルパ郡の6ヶ村にマガル族の特別郡を設置、同年3月、郡人民政府を樹立。
2003年末、ラプティ県のロルパ・ルクム・サリヤンの3郡(全域)とビュータン郡・ダン郡の北部、ダウラギリ県のバルグン・ミャグディの2郡(全域)、ルンビ二県のグルミ・パルバ・アルガカンチの3郡(全域)とナワルパラシ群の北部、ガンダキ県のシンジャ群を領域としてマガラート自治区発足。
2004年1月7、8日 ルクム郡マハト村において上記地域の代表130人による第一回自治区議会が開催。人民政府の首脳部を選出。1月9日、マガラート自治区人民政府の樹立宣言。
2004年1月-2月 マオバディ、首都圏のカトマンズ盆地を領域とするネワール族の自治区「ネワ自治区」をのぞく8自治区の人民政府を発足させる。
編集 国際関係
ネパールの外交の基本方針は非同盟中立である。また、隣国のインドと中国と深い関係を持っている。条約により、インドとネパールの国民はビザなし、パスポートなしで両国を行き来できる。また、ネパール国民はインドで自由に働くことができる。このようにネパールとインドが密接な関係を持っているにもかかわらず、ネパールはしばしば、問題の多い中印関係に翻弄されてきた。
最近中国は、中国のチベット政策に対する抗議活動を抑圧するようネパールに要請した。2008年4月17日、ネパール警察は、中国との良好な関係を維持するため500人以上のチベット人の活動家を逮捕した。
8月15日選出されたプラチャンダ元首相は、最初の外遊として北京オリンピックの閉会式への参加という形で訪中し、胡錦濤国家主席、温家宝首相と会談している[22]。慣例ではネパール首相が最初に訪れる外国はインドであり、異例の外交といえる。
アメリカは長年、毛派をテロ集団と位置づけ、国王を援助してきたが、民主的な選挙で第一党となったことで、友好的な態度に変わった。
日本とネパールの関係は現在良好である。要点は次の通りである。
経済援助額はイギリスについで世界第二位である。
国連の停戦監視団に6名の自衛官を派遣している。
制憲議会選挙に選挙監視団を派遣している。
2007年10月10日には来日したサハナ・プラダン元外相と日本の高村正彦外相が公式に会談した。プラダン外相は日本による投票箱の供与や国連監視団の協力に感謝し、日本の国連常任理事国入りを支持した。(プラダンは国連総会でも日本の常任理事国入りを支持する演説を行っている。)[23]
また、毛沢東派のプラチャンダ議長は政権就任前、日本にガジュレル政治局員を非公式に派遣した。ガジュレルは、日本・ネパール友好議員連盟会長の二階俊博衆議院議員や当時の木村仁外務副大臣と会談し、また、共同通信のインタビューも受けている[24]。
2008年7月16日には日本から宇野治外務大臣政務官がネパールを訪問、当時のギリジャ・プラサド・コイララ首相のほか、毛派のプラチャンダ議長ら、各党の幹部と個別に会談した。制憲議会発足後初めての要人訪問である[25]。
また、8月中旬、ネパール統一共産党前総書記のマダブ・クマル・ネパール元副首相(現・首相)が来日している。
2008年8月22日、プラチャンダ内閣の外務大臣としてマデシ人権フォーラム党首・ウペンドラ・ヤーダブが就任した。
2009年2月6日、プラチャンダ内閣の閣僚として初めてバブラム・バッタライ財務大臣が来日した。[26]
2009年6月4日、マダブ・クマル・ネパール内閣の外務大臣として、ネパール会議派所属のスジャータ・コイララ(女性)が就任した。 [27]
2009年6月4日現在の日本の在ネパール特命全権大使は水野達夫、ネパールの在日本特命全権大使はガネシュ・ヨンザン・タマンである。
編集 軍事
「ネパール軍」を参照
ネパール軍は、陸軍航空隊を含むネパール陸軍から構成される。王制時代は「王立ネパール陸軍」(Royal Nepal Army)と呼ばれていた。95,000人の兵員、各地方に置かれる6個師団および、航空旅団、空挺旅団、治安旅団の独立の3旅団からなる。
志願兵制であり、軍への登録は18歳から可能である。2004年の統計で、ネパールの軍事予算は9920万ドルで、GDP比は1.5%である。武器、装備の多くはインドから輸入されている。1990年の憲法では軍の最高指揮権は国王にあるとされたが、現在は大統領が最高指揮権を持っている。
また、今まで国軍と敵味方として戦ってきた毛沢東派のゲリラ組織、ネパール人民解放軍と合同するのか、しないのかも困難な課題として、制憲議会で議論されている。
現在、政府軍と人民解放軍の停戦を国連(UNMIN)が監視しており、停戦監視団には日本の自衛隊からも6名が派遣されている。
国防大臣は統一共産党のビディヤ・バンダリ(女性)。国軍制服組のトップはルークマングド・カトワル陸軍参謀総長。カトワルはギャネンドラ前国王の側近[28]で国軍と人民解放軍の統合に公然と反対している。コイララ前首相の時にも傍若無人の振る舞いがあったとされるが、クーデタを恐れて更迭しなかったという[29]。2009年5月3日プラチャンダ元首相は彼を解任したが、毛派以外の連立与党各党の反発を招き、政権は崩壊した。結果として、カトワルは留任している。
編集 民間軍事会社
2005年にシンガポールで開催された国際オリンピック委員会会議の会場警備をするグルカ兵
ネパールはグルカ兵を世界中に派遣する世界有数の民間軍事会社のコントラクター派遣国でもあり、中世スイスのように実質的な傭兵も大きな産業となっている。 グルカ・セキュリティー・ガーズ(GSG)を初めとしてグルカ・セキュリティー・グループと呼ばれる民間軍事会社が形成されている。 一人当たりのGDPが1200ドルほどしかなく農村の平均年収が300ドル以下のネパールでは月収1000ドル以上のコントラクターの給与は大変な高給であり、傭兵で一攫千金を夢見る人間が多く出ている。
なお、ネパール政府は民間軍事会社の法規ともいえるモントルー文書を批准していない。
編集 地理
編集 概要
ネパール地図
サガルマタ(エベレスト)
アンナプルナⅢ、マチャプチャレ
北を中華人民共和国のチベット自治区に、西をインドのウッタラーカンド州に、南をウッタル・プラデーシュ州とビハール州に、東をシッキム州と西ベンガル州に接する。内陸国である。
国境の長さは合計2926km、うち中国国境1236km、インド国境1690km。
中国国境地帯にはサガルマタ(英国呼称エベレスト)を始めとする8000m級の高峰を含むヒマラヤ山脈が存在する。そのため高山気候となっている。一方、インドとの国境地帯は「タライ」「テライ」または「マデス」といわれる高温多湿の平原地帯で、肥沃である。その中間には丘陵地帯が広がる。最高所はエベレストで標高8850メートル。最低所は標高70メートルである。
面積は140,800km²。本州を除いた日本(北海道+九州+四国)にほぼ等しい。 データはすべてCIA World Factbook-Nepalより
編集 ヒマラヤ山脈
「ヒマラヤ山脈」を参照
中国国境に接するネパール北部は世界の屋根とも称される8000メートル級の山々が林立する高山地帯であり、多くの登山家を惹き付けてきた。高山の山間には氷河が多く形成されている。近年は地球温暖化の影響で高山の雪がとけ、氷河湖の決壊が問題となっている。氷河湖が決壊すると大量の土砂による土石流が発生し、大きな被害が発生する。特にエベレストのふもとにあるイムジャ湖は大変危険な状態にあるといわれている。 以下、ネパール国内の主な高山を挙げておく。
サガルマタ(エベレスト)8,844m
カンチェンジュンガ8,586m
ローツェ8,516m
マカルー8,462m
チョ・オユー8,201m
ダウラギリ8,167m
マナスル8,163m
アンナプルナ8,091m
編集 行政区画
「ネパールの行政区画」を参照
国号の項でも書いたが、現在のところ連邦制は現実には採用されておらず、そのあり方については制憲議会で議論されている。
マオバディは2001年、全国に9自治区を設置する構想を発表、実効支配領域において、2004年初頭までに、首都圏のカトマンズ盆地を領域とするネワール族のための「ネワ自治区」を除く8自治区を発足させたが、いまのところネパール国家における正式な制度にはなっていない。
5つの開発地域(विकास क्षेत्र、英語ではdevelopment region 開発地区と訳す場合あり)の下に、14の県(अञ्चल、英語ではzone)、さらにその下に75の郡(जिल्ला、英語ではdistrict)がおかれている。郡は単なる行政区画ではなく地方行政組織であり、中心都市には郡庁がおかれている。
編集 ネパールの主な都市
「ネパールの都市の一覧」を参照
順位
都市名
1991年国勢調査
2001年国勢調査
2005年推計
郡
1
カトマンズ
421.258
671.846
790.612
カトマンズ
2
ポカラ
95.288
156.312
186.410
カスキ
3
ラリトプル (パタン)
115.865
162.991
183.316
ラリトプル
4
ビラートナガル
129.388
166.674
168.331
モラン
5
ビルガンジ
69.005
112.484
133.244
パルサ
6
ダーラン
66.457
95.332
128.605
スンサリ
7
バラトプル
54.670
89.323
117.162
チトワン
8
マヘンドラナガール
62.050
80.839
99.124
カンチャンプール
9
ブトワル
44.272
75.384
91.737
ルパンデヒ
10
ヘトウラ
53.836
68.482
84.800
マクワンプール
編集 マデシ問題
マデシとは、タライ、またはテライともいわれるインド国境地帯に東西に細長く広がる肥沃な平原地帯(マデス)に住む人々のことである。現在の行政区画にはない。この細長い地域は文化的に北インドの影響が強く、丘陵地帯に住むネパール人の主流派パルバテ・ヒンドゥーから差別を受けてきた。このため、近年、「マデシ人権フォーラム」などの団体が中心になって、マデシ自治区を設け、高度な自治を実現するように、バンダ(ゼネラル・ストライキ)・チャッカジャム(交通妨害)などの激しい抗議活動を行ってきた。2008年の制憲議会選挙ではマデシ系のいくつかの政党が目覚しい議席数を獲得している。
2008年の初代大統領、副大統領選挙では、マデシ人権フォーラムがキャスティング・ボートを握り、副大統領はフォーラムから、大統領はマデシ出身のネパール会議派から選出された。
副大統領のパラマーナンダ・ジャーは就任式でマデシの共通言語としてヒンディー語(インドの言語)で宣誓を行い、マデシ以外のネパール人の怒りをかった。学生デモではジャーの人形を燃やしたり、「ジャーはインドのエージェント」というスローガンが現れたりした。ついにはジャーの自宅に爆弾が投げ込まれるテロ行為にまでエスカレートした。
今後、マデシ問題は不安定な政局と絡んで複雑化しそうな情勢である。
編集 経済
編集 概説
IMFの統計によると、2010年のネパールのGDPは151億ドル(約1兆3000億円)であり[30]、鳥取県の65%程度の経済規模である[31]。
主な産業は農業であり就業人口の約7割、GDPの約4割を占める。米や小麦、トウモロコシ、ジャガイモ、ジュートなどが主たる農産物である。それ以外の産業では、繊維産業と観光業が主たる産業となっている。しかし耕地面積は小さく、後発開発途上国の1つに数えられている。また、国王派とマオイストとの闘争の影響で観光客は減少している。
ヒマラヤ山脈を利用して水力発電が行われており、ネパールの発電量のほぼ全てを水力発電が占める。しかしその発電量は不足しており、計画停電が行われている。
隣国であるインドとの結びつきが強く、輸出・輸入共にインドが最大の相手国である。
編集 データ
編集 国内総生産 (GDP)
GDP (購買力平価):290.4 億ドル (2007年推計)
GDP (名目為替レート):96.27億ドル (2007年推計)
GDP - 実質成長率:2.5% (2007年推計)
GDP - 一人当たり (PPP):$1,200 (2007年推計)
GDP - 部門別割合:
農業: 38%
鉱工業: 20%
サービス業: 42% (2005年会計年度)
編集 労働力
労働力人口:1111万人(2006年推計)
特記:熟練労働力は著しく不足している。
産業別労働力人口の割合:
農業: 76%
鉱工業: 6%
サービス業: 18% (2004年推計)
失業率:42% (2004年推計)
貧困線以下の人口の割合:30.9% (2004年)
編集 貧困問題
山村の子供たち
干ばつや洪水で農作物が阻害を受けている。
土地保有者の割合は少なく、国の衛生状態は極めて悪い。
人口増加の影響により、食糧危機の状態にある。
編集 家計
家計収入の分配(ジニ係数):47.2 (2004年)
消費者物価指数インフレ率:6.4% (2007年推計)
編集 国家予算
歳入: $11.53億
歳出: $19.27億 (2006財政年度)
編集 鉱工業
鉱工業生産成長率:2.2% (2005財政年度)
編集 エネルギー
電力生産量:25. 11億 kWh (2006年)
電力消費:19. 6 億 kWh (2006年)
電力輸出:1. 01億 kWh (2006年)
電力輸入:2億6600万 kWh (2006年)
石油生産高:0 bbl/1日 (2005年推計)
石油消費量:11,550 bbl/1日 (2006年推計)
石油輸出量:0 bbl/1日 (2004年)
石油輸入量:11,530 bbl/1日 (2006年推計)
石油備蓄量:0 bbl (2006年1月1日推計)
天然ガス生産量:0 cu m (2005年推計)
天然ガス消費量:0 cu m (2005年推計)
天然ガス備蓄量:0 cu m (2006年1月1日推計)
編集 輸出入
輸出: $8億3000万 f.o.b.;注意 - 記録されていないインドへの輸出は含まず。(2006年)
輸出商品: じゅうたん, 衣料, 革製品, ジュート製品, 穀物
輸出相手国
インド67.9%,
アメリカ11.7%,
ドイツ 4.7% (2006年)
輸入:$23. 98 億 f.o.b. (2006年)
輸入商品: 金, 機械・装備, 石油製品, 肥料
輸入相手国
インド 61.8%,
中国 3.8%,
インドネシア 3.3% (2006年)
経済援助 受給額:$42億7900万 (2005年)
対外債務: $30億7000万(2006年3月)
編集 通貨
通貨(コード): ネパール・ルピー (NPR)
為替レート: ネパール・ルピー /米ドル - 不明(2007年), 72.446(2006年), 72.16(2005年)
データはすべてCIA World Factbook-Nepal
編集 交通
フラッグキャリアのネパール航空が近隣諸国との間を結んでいる。近年は韓国のインチョンより大韓航空、タイのバンコクよりタイ国際航空、カタールのドーハよりカタール航空が結んでいる。 複数の航空会社が国内線に就航しているが、多くの国民はバスなどで移動をしている。なお、鉄道はジャナクプル鉄道を除くと、存在しない。
編集 国民
ネパール政府は1958年に中央統計局(Central Bureau of Statistics)を設け、10年に一度国勢調査を行うほか、国民所得統計、農業センサスなども行っている。また、サンプル調査により、毎年人口推計を出している。
編集 人口関連
人口
29,519,114人(2008年推計)
人口密度
209.65人/km²
年齢別人口構成
0-14歳: 38%
15-64歳: 58.2%
65歳以上: 3.8%(2008年推計)
平均年齢
全体: 20.7歳
男性: 20.5歳
女性: 20.8歳(2008年推計)
人口増加率
2.095% (2008年推計)
出生率
人口千人あたり29.92人(2008年推計)
死亡率
人口千人あたり8.97人(2008年推計)
乳児死亡率
新生児千人あたり62人
誕生時の平均余命
60.94年
編集 民族
少数民族のタルー族の村
民族構成
チェトリ 15.5%[32], 丘陵ブラーマン 12.5%[33], マガール族 7%, タルー族 6.6%, タマン族 5.5%,ネワール族 5.4%,イスラム教徒 4.2%,カミ 3.9%[34], ヤーダブ[35] 3.9%, その他 32.7%, 不明 2.8%(2001年国勢調査)
チェトリ、丘陵ブラーマン、カミなどのカーストは共通の民族で、総称してパルバテ・ヒンドゥーと名づけられているが、この名称はネパール国内ではあまり用いられていない。インド・イラン語派のネパール語を母語とし、国民の約半数を占める最大で支配的な民族である。
小数民族の一つに、ヒマラヤのガイドとして名高いシェルパがある。
詳細はネパールの民族の一覧を見よ。
編集 言語
言語
公用語はネパール語。
ネパール語 47.8%, マイティリ語 12.1%, ボージュプリー語 7.4%, タルー語 5.8%, タマン語 5.1%, ネワール語 3.6%, マガール語 3.3%, アワディー語 2.4%, その他 10%, 不明 2.5%(2001年国勢調査)
ただし、政府や企業、教育機関では英語が多用されている。
編集 宗教
宗教
ヒンドゥー教徒 80.6%, 仏教徒 10.7%, イスラム教徒 4.2%, キラント教徒 3.6%, その他 0.9%(2001年国勢調査) なお、ヒンドゥー教は国教ではなくなった。
編集 難民
難民(出身国)
10万7803人(ブータン); 2万0153人(チベット・中国)
国内で家を失った人々
5万0000人-7万0000人(毛沢東派の「人民戦争」による。2006年終結)(2007年)
データはすべてCIA World Factbook-Nepalより
編集 教育
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
キルティプルには国内最古・最大のトリブバン大学、カトマンズには2番目に古いカトマンズ大学などの高等教育機関がある。
編集 識字率
15歳以上で読み書きできる人の割合は48.6%。
うち男性 62.7%
うち女性 34.9% (2001年国勢調査)
編集 文化
編集 食文化
詳細は「ネパール料理」を参照
ダルバート(代表的な家庭料理で、ダル(daal=豆スープ)とバート(bhaat=米飯)の合成語)
食文化はインド料理と中華料理・チベット料理が融合されたものである。これは、国の位置がインドと中国・チベットに近いために生じた現象である。 味としては、インド料理に似ているものが多い。日本にも多数のネパール料理店があるが、純粋なネパール式のダル・バート・タルカリ(ご飯とおかずのセット)を出す店は少ない。 また、限りなくインド・中華・チベット料理に近い料理が存在していても、 日本のラーメンが(中華風の)日本の料理と見なされているのと同じように、現地では外国料理ではなくネパール国内の料理と見なされている。
主食
バート(インディカ種が多く食べられている)など
ディロ(ソバやトウモロコシなどの粉を粥状に煮た食べ物)
チャパティ(日常ではナンよりもチャパティが多く食べられている)
インド料理に近い食べ物
タルカリ(カレー)
ダール(主にひき割りにした豆類のかけ汁)
アチャール(ネパール式のピクルスなどの添え物)
プラオ(インド風の炊き込みご飯)
ビリヤニ(インド風の焼き飯)
ライタ(ヨーグルトサラダ)
ティッカ(肉や魚を香辛料に漬けた物。辛い物が多い。チキンティッカが有名)
サモサ(インド風の揚げギョウザ)
パパド(豆のせんべい)
ハルワ(にんじんなどを原料にしたお菓子)
ラッシー(ヨーグルトドリンク)
チヤ(ネパールチャイ)
中華料理に近い食べ物
チョウメン(ネパール風焼きそば)
鶏チリソース(中華料理よりも激辛に味付けされている)
チベット料理に近い食べ物
モモ(ネパール式蒸しギョウザ、中華料理の餃子に似ている)
茶:(チベッタンティー バター茶)
アルコール
ラクシ(蒸留酒)
チャン(どぶろく)
ククリラム(ラム酒)
編集 暦法
ネパールの公式の暦として現在太陽暦のビクラム暦(विक्रम संवत्、Bikram Sambat)が採用されている[36]。略号はवि. सं.(B.S.)。 それまで使用されていた太陰暦に代えて、チャンドラ・シャムセール首相・大王がB.S.1961年の新年(西暦1904年4月)より、太陽暦のビクラム暦を公式の暦として用い始めたとされる[37]。 歴史的には年代、地域、王朝によって、さまざまな暦が使用されてきたが、太陽暦のビクラム暦以外はすべて太陰暦だった。これまで用いられてきた暦には、ビクラム暦の他、シャカ暦、ネパール暦(ネワール暦)、マンデーブ暦(マーナ・デーヴァ暦)、ラクシュマン・セーン暦(ラクシュマナ・セーナ暦)などがある。
西暦4月の半ば(年によって1〜2日のずれが生じる)を新年とし、ひと月の日数は29日〜32日の月があり、前半の月が多めの日数、後半の月が少なめの日数という傾向があるものの、一定していないので西暦とはずれが生じる。 なおビクラム暦はネパールの公式の暦であり、実生活でも一般に広くいきわたっている暦であるため、日本語でネパール暦と呼ぶ例がみられるが、ネパール暦(नेपाल संवत्, Nepal Sambat)はビクラム暦とは別の暦で新年が秋に来る太陰暦(太陽太陰暦)である。この暦は主にネワール族の間での使用に限られているので、暦名の用法に注意が必要である。
ビクラム暦は、インドのウッジャイニー(現ウッジャイン)を統治していたビクラマーディテャ(ヴィクラマ・アーディテャ)という王が、シャカ族との戦争に勝利した記念に始めた暦だといわれている[38]。この暦の起年は紀元前57年で、西暦2008年4月13日はB.S.2065年バイサーク月(第1月)第1日にあたる。ネパールでは中世前期カス・マッラ王朝時代頃からビクラム暦の使用が銘文等に認められる[39]。
なお太陰暦(厳密には太陽太陰暦)のビクラム暦は、月名は太陽暦のものと基本的に同じであるが、日の呼び方は太陽暦ではガテといい、太陰暦ではティティという。太陰暦のビクラム暦は約3年に1度閏月をはさむことによって太陽暦のビクラム暦とのずれを調整している(太陽太陰暦)。祭り(ビスケット・ジャトラを除く)や宗教行事等は基本的に太陰暦のビクラム暦によっているので、西暦とのずれが生じる。
近年都市部を中心に西暦の使用も広まっているものの、実生活においてはビクラム暦の方が馴染みが深い。毎年西暦3月頃に売り出される市販のカレンダーには太陽暦のビクラム歴をベースに、西暦と太陽太陰暦のビクラム歴を併記しているものが多い。
編集 祝祭日
外部リンク ビ暦2066年祝祭日の項を参照。
編集 世界遺産
「ネパールの世界遺産」を参照
ネパール国内にはユネスコの世界遺産リストに4件が登録されている。
サガルマータ国立公園 - (1979年、自然遺産)
カトマンズの渓谷 - (1979年、文化遺産)
チトワン国立公園 - (1984年、自然遺産)
仏陀の生誕地ルンビニ - (1997年、文化遺産)
編集 ネパールと日本の文化交流
現在、ネパールと日本との友好関係は良好である。社団法人日本ネパール協会が交流の中心になっている。
編集 脚注
ヘルプ
^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
^ 外務省:ネパール
^ http://news.xinhuanet.com/english/2008-07/24/content_8761078.htm
^ 「古代」「中世」「近代」「現代」を分ける区切りは佐伯和夫「ネパール全史」明石書店に依った。なお、「現代」のネパールである共和国時代は、2008年以後。
^ 佐伯和彦「ネパール全史」明石書店21p
^ 佐伯和彦「ネパール全史」明石書店28p
^ 佐伯和彦「ネパール全史」明石書店42p
^ 佐伯和彦「ネパール全史」明石書店39-55p
^ この項、佐伯和彦「ネパール全史」による
^ 王制復活へ期待の矢先、ネパール元皇太子が発砲
^ カトマンズ・ジャーナル
^ 英:General Secretary.ネパール会議派では党首ではなく、また複数いる場合があるので、「総書記」「幹事長」と訳すのは不適と考え、「代表幹事」の訳を充てた。
^ カトマンズ・ジャーナル2008年7月19日
^ eKantipur.com
^ eKantipur.com
^ eKantipur.com
^ カトマンズ・ジャーナル
^ Himalayan Times 15 Aug 2008
^ Nepalnews.com Aug.31 2008
^ 2009年5月23日"Nepalnews.com"
^ 以下、本節の記述は小倉清子『ネパール王制解体:国王と民衆の確執が生んだマオイスト』日本放送出版協会, 2007, ISBN 978-4-14-091075-7による(pp.135-138)。
^ Reuters Aug.19 2008
^ 外務省:高村外務大臣とプラダン・ネパール外務大臣の会談について
^ 共同通信2008年6月18日 16:20
^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/seimu/uno/nepal_08/gaiyo.html
^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/21/2/1187504_1092.html
^ Nepalnews.com 2009年6月4日付け
^ http://blog.livedoor.jp/upreti/archives/51545666.html
^ http://www.asiapress.org/free-db/archives/2007/11/20123216.html
^ IMF
^ 国民経済計算
^ カースト
^ カースト
^ カースト
^ カースト
^ 現代ネパール語でのविक्रमの発音はビクラムだが、学術的にはサンスクリット語読みでヴィクラマと書かれることもある。ネパールに関する項では原音主義に基づきビクラム暦とする。
^ नेपालमा प्रचलित संवत् र व्यावहरिक प्रयोग।मेरो नेपाल अनलाईन なお英語版では1903年としている。
^ グルプラサッド・マイナリ『ナソ・忘れ形見』 野津治仁訳、穂高書店、1992年、210頁下段。
^ 佐伯和彦『ネパール全史』明石書店、212〜213頁
編集 参考文献
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
ETV特集1998年放送「20世紀最強の軍隊 グルカ」 - グルカ兵に関するドキュメンタリー。訓練中の様子以外にも、イギリス軍の部隊縮小によって職を失ったグルカ兵が民間軍事会社へ転職を余儀なくされたり、国の家族へ送金する額が最盛期の半分に落ち込んだため、国の財政にも影響が出ていると報告している。
編集 関連項目
ネパール関係記事の一覧
ムスタン王国
岩村昇
大木章次郎
近藤亨 (NPO理事長)
宮原巍
アニ・チョイン・ドルマ
バングラデシュ
ブータン
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地域
イギリス : アクロティリおよびデケリア¹ | オーストラリア : クリスマス島 - ココス諸島 | 中華人民共和国 : 香港 - マカオ
「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国であり、国際連合非加盟。事実上独立した地域一覧も参照。
¹ ヨーロッパにも分類され得る。
² 一部はアフリカに含まれる。
ネパール - Wikipedia
ネパール連邦民主共和国(ネパールれんぽうみんしゅきょうわこく
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Cinema of Nepal - Wikipedia, the free encyclopedia
Nepal does not have a very long film history but the industry has its own place ... In film industry parlance, Kathmandu, the capital and center of the Nepali ...










