ラティウム・ベトゥス ラテン人(ラテン語:Latini)は、イタリック語派に属する古代民族で、イタリア中西部のラティウム・ベトゥスに居住した勢力を指す。紀元前1000年頃から居住を開始したラテン人は、後に世界帝国へ躍進するローマ文明の礎を築いた事で知られている。 また彼らの使用した言語(ラテン語)はロマンス諸語の母体となり、多大な文化的影響を残している。 目次 1 語源 2 言語 3 歴史 3.1 民族移動 3.2 ラティウム文化 4 神話 5 関連項目 6 資料 6.1 引用 6.2 書籍 6.3 外部リンク 編集 語源 ラテン人(ラティニ)は、恐らく「ラティウムの人々」を単に意味すると考えられている。加えて彼らの故郷(ラティウム)の由来がラテン語の「latus」(「広い」)に由来するとも考えられている。山がちなイタリア半島の中でもラティウムは平原や草原などに恵まれた土地柄であった。 編集 言語 東西イタリック語の分布地図(非イタリック語の領域も示されている) ラテン人は民族文化の基盤である言語に関して、インド・ヨーロッパ語族に属するイタリック語派の一派であるラテン語を使用した。イタリック系言語は主に西イタリック語と東イタリック語に分かれており、ラテン語は西イタリック語に含まれる。 西イタリック語はラテン語(ラティウム)、ウェネティ語(ヴェネツィア)、シセル語(シチリア島)から構成されると考えられている。またラテン語と共にラティウムに分布していたファリスキ語は、今日の言語学ではラテン語の方言と考えられている[1]。鉄器時代の時点では西イタリック語は比較的限られた地域で用いられるに留まり、大部分のイタリアでは兄弟言語の東イタリック語が使用されていた。東イタリック語はオスク語とウンブリア語を中心にした言語で、中部・南部で支配的な言語であった[2]。 鉄器時代の古代イタリアには印欧語族前に存在した欧州の言語(前インド・ヨーロッパ)も分布していた(リグリア語、エトルリア語、ラエティ語がその典型例である)。ただし、彼らがイタリア半島の先住民であったかは不明であり、イタリック人の後から別地域より移住した可能性もある[3]。後年には同じ印欧語に属するケルト語派や古代ギリシャ語が南北に伝播して、新しい言語分布を作り出した。こちらは明確にイタリック人の移住より後である事が判明している。 ラテン語の最も古い石碑は1899年にローマのフォロ・ロマーノのラピス・ニゲルで発見された。この石碑は王政初期の紀元前600年頃に作られたと見られている[4]。この石碑はローマ史研究に多大な影響を与えた。一部の歴史家はローマ建国時において支配的な文化はラテン語ではなくエトルリア語であったと主張していたが、同説が明確に否定されたからである。加えて碑文の内容から、神話的な存在であると考えられていたローマ王が実在の人物である可能性も大きく高まった。 編集 歴史 編集 民族移動 クルガン仮説に基づいたインド・ヨーロッパ語族による民族大移動の経路。北コーカサスから各地域へと移動している様子が描かれている。赤色は紀元前2500年時点の領域、オレンジは紀元前1000年時点の領域である。 インドヨーロッパ語族の大移動で、その一翼を担っていたイタリック人によるイタリア半島への移住が開始された。移住は古代イタリアに鉄器が伝来した紀元前900頃には既に完了されていたと考えられる。開始時期については諸説あり、最も一般的な仮説は古代イタリアでの青銅器時代(紀元前1800年から紀元前900年)に侵入したとされている[5]。そして移動経路はバルカン半島南部からアドリア海沿いに北進したとされていた[6][7]。だがこの説を裏付ける考古学的資料は何ら見つかっておらず、仮説の域を出ていないというのが実情である。 考古学分野の研究は紀元前1800年から紀元前1200年の間、イタリア半島に文化的統一性が生じている事を発見し、これをアペニン文化と呼称した。アペニン文化圏においては陶器や武器・道具の形状に著しい同一性が確認されている。この時代のイタリア半島は山がちな地形ながら樹木の生い茂った森林地帯であり、住民の多くは山の麓に街を築いた。街の規模は小さく、放牧による牧歌的な文化が育まれていたと見られている。埋葬文化は土葬であったが、青銅器時代の終わりごろから火葬文化へと切り替わる地域が散見され、平行して文化的な統一性が失われていき、アペニン文化圏は消失した[8]。 一部の歴史家はこのアペニン文化の崩壊こそがイタリック人の侵入時期を示す証拠であると考え、青銅器時代後の侵入を主張した。だが火葬文化を齎したと考えられるビラノバ文化の分布地域は、東西イタリック人の定住地域と一致していない[9]。考古学者ティム・コーネルは「青銅器時代の終わりにイタリック人が侵入したという考古学的証拠は何もない」と性急な結論を批判している[10]。ただしコーネルは「イタリック人が青銅器時代の終わりに侵入しなかったという証拠もまたない」と述べている[11]。 ラテン人の聖地とされたアルバ山 言語学的な観点からは、イタリック語などの古代イタリアにおける言語の分布から民族移動の順番を推測できる。まずイタリック人の侵入は二派に分けて行われ、先に西イタリック人が侵入し、第二派で東イタリック人が侵入したと考えられている。なぜなら東イタリック語が地続きで分布しているのに対して、西イタリック語は東イタリック語に分断される形で点在しているからである。前印欧語の侵入時期については判断が難しく、先に定住していたという説もあれば東西イタリック人の後であるという説もある。いずれにせよ、言語は大規模な移住以外にも変化しうる可能性のある分野である事から、移住時期の決定的な推測資料にはなりえない[12]。 ラテン神話の主神ラティヌス(ヴェンツェスラウス・ホラー) 青銅器時代のラティウムに居住者がいたという考古学的証拠は見つかっていない。アペニン文化圏で作られた少数の陶器が見つかったが、その数の少なさから近隣の住民が一時的に放牧を行っていたに留まると考えられている[13]。青銅器時代末の紀元前1000年頃からラテン人による占領の痕跡が見つかり始め、彼らはアルバなど沿岸地帯の高地に強固な都市を建設していった。こうした沿岸部の山岳地帯は防衛と灌漑による農業の双方に適していたからである[14]。特に七つの丘に囲まれた要地に建設されたローマはラテン人都市の中心地として栄えた[15]。 編集 ラティウム文化 民族的には紀元前1000前から紀元前700年頃にイタリック人という今までの概念から、ラテン人という新たな帰属心と独自の文化圏を形成し始めたと見られている[16]。彼らの文化はラティウム文化圏と呼ばれ、一部の学者はビラバノ文化圏と関連すると考えているが、現時点では両者の関係は明確ではない。ラティウム文化における最大の特徴は小屋の形を模した棺を使用するという点である。この伝統は前期ラティウム文化では部分的であったが、後期ラティウム文化では一般的になっていった[17]。 住居は木と藁で作られた質素な農作業小屋を基本としており、紀元前650年頃まで一般的な住居であった[18]。木造様式の家屋における典型的な例がパラティーノの丘に残された「カーサ・ロムルス」と呼ばれる建築物である。建国者ロムルス自身の手で作られたというカーサ・ロムルスは文化財として維持され、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの治世までは残されていたという[19][20]。 編集 神話 アイネイアースに月桂樹の冠を授けるラティヌス リヴィウスの伝承によれば、民族神にして王であった主神ラティヌスによって、ラテン人は祖父の土地よりラティウム・ベトゥスへと導かれた。同じ頃、ギリシャ神話で古代ギリシャ人に滅ぼされたトロイ王国の貴族アイネイアースは神々の加護によって戦乱から脱出した。幾つかの冒険を経てアイネイアースはティヴェレ川に辿り着き、ラティヌスに謁見した。ラティヌスはアイネイアースの武勇を賞賛して宮殿に招き、自らの娘ラウィニアを娶らせた。アイネイアースは妻との間にアスカニオスとシルウィウスという子を儲け、妻子の為にラヴィニウムという都を築いたという[21]。 アスカニオスは父と祖父の死後に王位を継ぎ、アルバ・ロンガに王宮を建設した。アスカニオスの死後は弟のシルウィウスが継承し、以降数百年にわたってアルバ王と呼ばれるラテン人の王家がラティウムを統治する事になった。そしてシルウィウスの子孫ヌミトルの孫が、ローマの建国者であるロムルスであった[22]。ローマ王トゥッルス・ホスティリウスによってアルバ・ロンガは破壊され、ラテン人の中心地はローマに移った。 アルバ・ロンガが実在したかどうかは議論の対象であり、前述のティム・コーネルはアルバ・ロンガ自体は実在したとしているが、一方で幾分に脚色された歴史を持つとも考えている。アルバ・ロンガの遺跡は発見されているが、王都と言うにはあまりに小規模な都市であった。また考古学的にはアルバ・ロンガの建設時期とラティウム文化の形成時期が食い違っている事も要因の一つである[23]。 ラテン人は複数の国家に分かれていたが、ラテン人としての強い同族意識を有していた。民族神ラティヌスの伝承はその要であり、全てのラテン人がラティヌス神を父を持つと信じられていた。ローマ人を含む全てのラテン人はラティヌスをユピテルとして崇める「ラテン人の祝祭」を行い、その日に限っては国家の別なく同胞との絆を分かち合う伝統があった。 編集 関連項目 ラテン語 ラテン系 ローマ人 ローマ 編集 資料 編集 引用 ^ Cornell (1995) 43 ^ Cornell (1995) 42 (Map 2) ^ Cornell (1995) 44 ^ Cornell (1995) 94-5 ^ Britannica Latium ^ Britannica Latium ^ Cornell (1995) 44 ^ Cornell (1995) 31-3 ^ Cornell (1995) 34 (map 1) ^ Cornell (1995) 41 ^ Cornell (1995) 33 ^ Cornell (1995) 44 ^ Cornell (1995) 32 ^ Britannica Latium ^ Cornell (1995) 54-5 ^ Britannica Latium ^ Cornell (1995) 51 ^ Cornell (1995) 57 ^ Dionysius I.79 ^ Dio XLVIII.43 ^ Livy I.1 ^ Livy I.23 ^ Cornell (1995) 57 編集 書籍 Dio Cassius Roman History (ca. AD 250) Dionysius of Halicarnassus Roman Antiquities (ca. 10 BC) Cornell, T. J. (1995): The Beginnings of Rome Encyclopædia Britannica 15th Ed (1995): Micropædia: "Latium" 編集 外部リンク Images of Villanovan hut-urn


2009922
http://gazoo.com/G-Blog/latinman/155769/Article.aspx

U's Blog

skip to main | skip to sidebar. 2009年6月10日水曜日. 言葉界のラテン人につられて.・・・ オーストラリアに留学した際、 パーティの度に「踊る」ということが私には少々億劫でした。 みんなが上手に、気持ち良さそうに、そして思いのままに踊る姿を見て、 「私にはそんな風に踊れない」と感じていたのです。 ...




http://gazoo.com/g-blog/community/Profile.aspx?NickName=%83%89%83e%83%93%90l

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その間、ラテン人および国際結婚などラテン人に関わりを持つ日本人の抱える多くの問題を、解決に導くことができました。 私は日本人の一般の方々、青年や子供達、そしてラテンアメリカの子供達にスペイン語圏の人々の文化、価値観、感情の表現等を伝えたり、海外の現状を伝えることで、日本人の皆さんが ...




http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-88202-163-6.html

ニュー速VIP底辺。・゚・(ノД`)・゚・。 ラテンってなんだよ『Latin』

初期のローマではエトルリア人とローマ(てかラテン人ていうべき?)の連携があったよね。 とはいえ、ローマ系にしろエトルリア系にしろ民族という形でまとまった行動より都市毎にあれこれ ... るように、日本語を使用するわれわれの側から、ラテン人の意. 識をどのように理解するかに力点が置かれていたように思う。 堀井令以知. 155 : ...




http://ww3.tiki.ne.jp/~rhythmstick6/99627bird.htm

ラ・ラティーニ イタリアの旅 その1 (トリノ編)

ラティーニ オフィシャルブログ ... 意味 ラテン人 ラテン語(陽気で気まぐれ) "ラ・ラテーニ"は陽気でちょっぴり気まぐれなお店です。 最近の記事. trentoのフェスタ (10/30) TRENTO(トレント) (09/29) Capri(カプリ島) (08/03) ピサの斜塔(PISA) (08/01) ヴェネチェア ...



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ラ・ラティーニ

私たちイタリア人シェフ(ファバローロ・バルトロ、五つ星ホテル・ヴィラ・コーラ所属)と日本人シェフ(フィレンツェ、料理学校ラ・フォール アカデミ出身)の二人で協力 ... 意味 ラテン人 ラテン語(陽気で気まぐれ) "ラ・ラテーニ"は陽気でちょっぴり気まぐれなお店です。 最近の記事. trentoのフェスタ ...



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ラテン人のラテンの語源は? - 歴史 - 教えて!goo

こんにちは。ラテン語、ラテン文字などの「ラテン」の語源は何だろうかと調べていたらラテン人に由来することがわかったのですが、ここでまた振り出しに戻ってしまいま...




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Sakky - pianist, composer : Jazz & Urban Music

ジャズピアニスト、作曲家、Sakkyのサイト。 長い間、アメリカのマイアミ,ボストン等で活躍。帰国後は自己のトリオ中心に米国で得たコンテンポラリーな幅広いレパートリーでライブ、イベント、コンサート等に出演。 ... また、ラテン人やキューバ人コミュニティーの中心、マイアミにも長年在住、交友を深める等、豊富な経験と持ち前のアーティスティックな感性を ...




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ラテン人とは - 歴史 - 教えて!goo

ラテン人の定義がよく分かりません。古代ローマ人を指すのでしょうか?となるとアーリア民族の一派ということになるのでしょうか?それともラテン語を話す民族の総称と...



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びびとひげ男と社交ダンス - Part 21

・・・アマチュア社交ダンサー競技奮闘ブログ・・・ 田舎の一般人が世界をめざし、踊っています。 ... 皆、ラテン人。 D 級ぐらいの人?だと思うんですが、白いパンツを履いているオジサマがいて. これまたΣ('`;)びっくり。 関西でも見たことないのに・・・白パンツのアマなんて ...




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